中城城跡から見た中城村。添石・伊舎堂の集落が見える。(1959年頃撮影)
中城城跡から見た中城村。添石・伊舎堂の集落が見える。(1959年頃撮影)
(参考:沖縄タイムス大百科事典、沖縄民俗辞典)
12世紀ごろから現れたとされる琉球各地の政治的な支配者のことです。琉球王府の時代には位階名となります。「中城按司」など、支配する領域の地名をつけて呼ばれます。
護佐丸の兄と伝えられています。山田按司の長男として生まれますが、争いごとを好まなかったため、父の後を継がず中城の地で農業に励んだといわれています。伊寿留の墓は中城グスクの東側にあり、子孫である伊舎堂安里家が管理しています。
旧暦12月24日に行われる、トートーメー(仏壇)やヒヌカン(火の神)などに1年の感謝を報告する行事です。
女性たちが踊る祭祀舞踊のことです。
沖縄の村落祭祀において重要な聖地のことを御嶽といいます。他にウガン、ムイなどとよばれています。
出産後の赤子に浴びせたり、産後の清めのために額産水をなでつける「ウビナディ(お水撫で)」を行うための水です。
沖縄の麦・稲にかかわる4つのお祭りのことです。2月(麦穂祭)・3月(麦大祭)・5月(稲穂祭)・6月(稲大祭)に行われます。現在、麦作が衰退しているため多くの村落では2月と3月のウマチーが廃止され、5月と6月のウマチーを行う所が多いと言われています。
旧暦6月23日に稲の収穫を祝い、その年にとれた作物を神に捧げる行事です。
国王の外出時に飾りとして使われる絹張りの大傘。黄染めの黄御涼傘と赤みを帯びたオレンジ色の赤御涼傘がある。
琉球王国を統一した尚巴志王が迅速な情報伝達のために敷いた制度だと考えられています。
生没年不詳、第一尚氏王統6代目尚泰久王に仕えた武将です。人々から「鬼大城」と呼ばれていました。阿麻和利討伐後、百度踏揚を妻にし、越来グスクの城主となりました。その後、第二尚氏王統に滅ぼされたと伝わっています。
1531年~1623年、三回にわたって首里王府が奄美・沖縄に伝わる「おもろ(祭祀歌謡)」を集めた沖縄最古の歌謡集です。全22巻で1554首のおもろが収められています。おもろは古琉球の民俗・思想・社会・歴史などを反映するもので、沖縄の伝統文化・文学・宗教・思想・社会構造などを考えるうえで大切な資料です。原本は1709年の首里城の火事で焼失しました。1710年に再編集された『尚家本おもろさうし』は、国の重要文化財に指定されています。
沖縄戦以前まで、当時の日本政府が沖縄において行った強制的な日本化政策のことです。住民に対してこれまで使用していたウチナーグチ(沖縄語)ではなく、日本語を使うことを強制し、神社の建設や参拝、日の丸の掲揚、君が代の斉唱などといった皇民化教育が行われました。
竈まわりのことで、旧暦10月1日におこなわれる年中行事です。火災予防の目的で集落内をまわり、各家庭でも火の用心をしました。
屋根の部分が亀甲状になっているお墓です。「カーミナクーバカ」と呼ばれています。亀甲墓は母体をかたどったものであるといい、人は死ぬと再びもとのところへ帰るという思想のあらわれといわれています。沖縄でもっとも古い亀甲墓は、中城村久場の護佐丸の墓、那覇市首里石嶺町にある伊江御殿家の墓(1687年)といわれています。一般に広く流行したのは、明治中期から大正・昭和にかけてだと考えられています。
死者を墓場まで担ぐ輿を保管する建物です。
琉球王国時代の士族層のうち、何らかの理由で首里から各地に移り住み、定住した人々のことをいいます。その人々が形成した集落は「屋取集落」とよびます。
生没年1206~ ? 舜天王統3代目の王と伝えられる人物です。在位は11年(1249~1259年)。琉球王国の正史『中山世譜』によると、1249年に義本が即位した頃、国中に飢饉や疫病が流行ったため人民の半数が死にました。そこで群臣のすすめで英祖という人物に国政をとらせたところ災いがおさまったので、義本は1259年、英祖に位を譲り、消息不明となったと記されています。義本王の墓と伝えられるものが北中城村仲順、国頭村辺戸など数カ所にあります。
「クサティ」ともいいます。沖縄の家や集落の背後にある山や丘・崖・森などのことです。沖縄の言葉で「支えや頼りにされる存在」という意味があります。
生没年1390?~1458年。山田グスク城主の三男に生まれ、琉球王国統一に活躍した武将です。第一尚氏王統6代までの王につかえた忠臣と伝わっています。座喜味グスクや中城グスクを築いた築城家として知られています。
1914年から1945年の初めまで、沖縄県によって経営されていた鉄道です。与那原線・嘉手納線・糸満線・海陸連絡船(那覇駅―那覇港)があり、距離は48.03kmありました。沖縄戦で破壊されるまで、陸上の輸送に重要な鉄道でした。
仏や菩薩が、人間をはじめとするすべての生物を救うために、権に人間などの姿になって現れることをいいます。
旧暦3月3日の行事のことです。「サングヮチサンニチ」とも呼ばれています。とくに女性が浜下りをし、厄を落とします。また各家では、ヨモギ餅を中心とした供え物を仏壇やヒヌカン(火の神)に供えて健康祈願を行います。
14世紀中頃に中城グスクを築いた按司です。先中城按司の一族が数世代にわたって、南の郭、西の郭、一の郭、二の郭を築造したと伝わっています。
かつて中城にあった村のひとつで、地滑りにより壊滅したと伝わっています。中城村字屋宜の統合拝所には、識名村の人々への供養のために建てられたと伝えられるカクリジカと呼ばれる拝所があります。
領地をもつ士で、近世の役職です。地頭とは、地頭地を授けられた者のことです。1村を領する者を脇地頭、1間切を領する者を総地頭とよび、区別されます。按司はもともと間切を領する者のため按司地頭ともいいます。総地頭とあわせて両総地頭ともいいます。
首里王府の急ぎの文書を各間切に伝達することを「宿次」といいます。琉球王国を統一した尚巴志が駅制を施した時に整備されたと考えられています。
疫病や風邪、悪霊が集落や家の中に入らないように行われる行事のことです。神役が御嶽に線香と花米をお供えして拝み、さらに動物(牛・馬・山羊・豚など)を切殺し、ワラ縄をなってその血で染め、外から災厄が入らないよう村の入口に縄を張ったり、屋敷の四隅に吊します。動物の骨を吊す地域もあります。
海岸線に沿って中城から西原へと続く道で、現在の潮垣線(しおがきせん)にあたります。かつてはこの道の近くまで海だったといいます。
添石、泊、新垣をはじめ、中城グスク内の拝所の祭祀を執り行っていたノロです。
稲の種子を苗代(田植えの前に、稲の種をまいて苗を育てる田のこと)にまく種子おろしの行事のことです。
翌年の種子取りを無事に終えたことを喜ぶ祭りを行う場所のことです。
奥間集落の後方にあるチナーヤマ(喜納山)にあった拝所です。1713年、首里王府によって編集された『琉球国由来記』にもその名が記されていることから、300年以上の歴史をもつ古い拝所であることがわかります。神名は「奥間森比喜セジノ御イベ」と記されています。1970年頃、土砂崩れによりチナーウタキ(喜納ノ嶽)は流され地中に埋もれてしまいましたが、現在は、チナーヤマ(喜納山)にあったとされる按司墓とキシマコノ嶽(シマクのウガン)の遥拝所とともに、奥間集落後方の以前とは異なる山中に合祀されています。
中城グスクの東側下方と、現在、沖縄成田山福泉寺の敷地となっている周辺一帯に、それぞれ添石村と照屋村があったと伝えられています。1713年に首里王府によって編さんされた『琉球国由来記』に「照屋村」の記載がありますが、その後17世紀後半から18世紀に前半にかけて添石村に統合されたと考えられています。
沖縄本島において拝所や祭祀場を意味する語。トゥン(殿)は、村落内で神を祀ったり、来訪神を迎えたりする場ですが、時には草分けの家:ニーヤ(根屋)の屋敷内におかれていることもあることから、集落の発祥の地とも捉えられています。
かつて沖縄にあった習俗のひとつで、赤子の「命名式」のことです。出産日から7日までの間に行われました。
1941年、「国民学校令」により、中城尋常小学校は中城国民学校になりました。現在の中城小学校のことです。
番所とは、琉球王国時代の間切の行政の拠点となった役所のことです。現在の町村役場にあたります。中城間切番所は、中城城跡内にありました。
沖縄本島南部のことで、三山分立時代(12~13世紀頃)、南山王の支配下にあった地域です。
沖縄本島と周辺離島において、村落の草分けの家やその一門から選出される女性祭祀者のことを「ニーガン(根神)」いいます。村落祭祀において重要な神役のひとつです。
沖縄の集落の中でムラの発祥の伝承にかかわる最も古いとされる家のことです。
沖縄本島と周辺離島において、村落の草分けの家から選出される男性祭司者のことです。草分けの家の当主が代々、ニッチュ(根人)を継承しました。
旧暦2月2日に行われた行事です。稲や豆などの作物の植え付けがひと段落する頃で、一休み(腰休め)という意味の沖縄語で「クシユックィー」ともいいます。今でいう慰労会のようなものです。
またはノロ(祝女)。沖縄の民間信仰では、女性のセジ(霊力)が重視され、村落の祭祀を行う神女として古くから、ノロ(祝女)と呼ばれる神役が存在していました。沖縄で按司がいた頃から存在していたとされるノロ(祝女)は、やがて琉球王国の政治的組織に組み込まれるようになると、辞令書をもって任命され、ノロクモイ地(役地として授けられた土地)や俸給などが支給されました。しかし明治以降は、公的な地位はなくなり、ノロ(祝女)を受け継ぐ人も少なくなりました。
ノロ(祝女)の住まいのことをいいます。「トゥンチ(殿内)」とは地頭以上の役職にある家をさす言葉ですが、ノロ(祝女)の住む屋敷にも「トゥンチ(殿内)」をつけてよびます。ヌルドゥンチ(祝女殿内)には代々のノロ(祝女)の位牌とヒヌカン(火の神)がまつられています。
琉球王国時代、国王のオナリ神(兄弟を守護するといわれる姉妹神)である聞得大君を頂点とした神女組織が確立され、それにより沖縄の各ムラで行われていた祭祀が国家的なものになり、国家祭祀を司るノロ(祝女)は、王府から辞令書が発給され「クージノロ(公儀祝女)」としてノロクモイ地(役地として授けられた土地)や俸給が与えられ、公的に保障されました。
1871年7月14日、日本本土の藩が廃され、府と県に改められました。沖縄では、1879年3月27日、明治政府から命を受けた松田道之が琉球処分官として警官160名と軍隊を率いて首里城正殿にのりこみ、尚泰王に首里城からの退去を命じ、琉球藩を廃し、沖縄県を設置することを通達しました。
旗頭とは、つな引き行事のときなどの幟のことです。竿の長さは21尺(約6.3m)を基準とし、トゥール(灯篭)・ゴウ・サンマー・吹き流しなどをつけます。旗字も地区によってさまざまです。ガーエーとは、勝負ごとをしているとき威勢をつけるために大声を出しつつもみ合うという意味の沖縄の言葉です。
旧暦7月16日、旧盆行事のあとに行われる悪霊払いの行事のことです。獅子舞やエイサー、棒を演じて村を清めるとされています。
旧暦1月に行われる行事です。水と塩に感謝する日とされ、集落内の井戸や拝所を拝みます。
旧暦8月9日または10日にカシチー(強飯)を炊いて、ヒヌカン(火の神)や祖霊などに供える行事のことです。
中城村字添石に伝わる鬼面のことです。屋号イリジョー(西門)に祀られています。現在のハチチブラーは、1976年に、復元されました。かつてのハチチブラーは沖縄戦で焼失したため、戦後一時期は、彫刻家故・山田真山にハチチブラーの絵を描いてもらい、それを拝んでいました。区民からの強い要望もあり、ラジオで製作を呼びかけたところ、奥平淳氏が引き受けてくれました。材料は、デイゴの木を利用し、髪は、北海道から馬の毛を取り寄せて作りました。僧侶を頼み、公民館で入魂式を行い、再びイリジョー(西門)に祀られました。
霊石のことです。霊石をまつる習俗をビジュル信仰といいます。おもに沖縄本島にみられます。ビジュルは高さ15cm~1mくらいの自然石で、人型(ダルマ型)のものが多いといわれています。ビジュルを安置した洞穴・石祠・神殿はティラ(テラ)と呼ばれます。中城村字安里には、4つの霊石をまつった安里のテラがあります。
間切(琉球王国時代の行政区分)の上級役人のことです。
生没年1356~1406年 中山王、在位10年(1396~1406年)。神号は中之真物。察度王の長子。1395年に察度が没したあと即位しました。1406年に佐敷按司であった尚巴志に滅ぼされました。
沖縄本島の多くの地域では旧暦12月8日に行われますが、中城村内の古くからある集落では旧暦の12月7日に行います。家族、とくに子どもの健康を祈願する行事です。ムーチー(餅)をサンニン(月桃)の葉で包んで神棚に供えたり、子どもの年の数だけ縄に結んで吊るす家庭もあります。
旧暦10月1日に行われる行事で、前年の旧暦10月1日から、その年の旧暦9月31日までに生まれた子どもの報告を行います。ウバギーとは、出産直後に炊かれる産飯のことをいいます。
毛國鼎護佐丸盛春を始祖とする琉球王国時代の士族の一族です。毛氏豊見城の大宗家(本家)は五大名門のひとつに数えられます。代々、豊見城間切(現豊見城市)の総地頭を勤めました。毛氏の名乗り頭は「盛」です。
芸能や祭りでの練り行列のことを道ジュネーといいます。村のアシビナー(遊び庭)で奉納芸能をする前に、村のウタキ(御嶽)や拝所の神々に顔見世をすることが目的です。
琉球王国時代、屋宜ノロは屋宜、当間、安里、奥間の祭祀を執り行っていました。
琉球王国時代の士族層のうち、何らかの理由で首里から各地に移り住み、定住した人々の集落のことをいいます。
恩納村山田にある山田グスクの城主です。護佐丸の父(または祖父)といわれています。
屋宜の海岸一帯は「ヤージンナトゥ(屋宜湊)」とよばれ、かつては湊だったと伝えられています。18世紀後半に作成されたとされる間切集成図にも「屋宜湊」と記されています。
1713年に首里王府が編集した琉球王国の地誌です。全21巻。琉球古来の祭祀が詳しく記されており、琉球の伝統的な社会を理解するにあたって基本的な本です。
琉球王国を統一した尚巴志王が迅速な情報伝達のために敷いた制度だと考えられています。
年の初め、1月1日の早朝、最初に汲む水のことです。沖縄の言葉では「ワカミジ」といいます。若水は、村の古井戸や産水を汲むウブカー(産井戸)などから汲みます。汲んできた若水は、ヒヌカン(火の神)、神棚、床の間などに供えます。
13~16世紀にかけて、朝鮮・中国大陸沿岸部を荒らした海賊のことをいいます。