年代 | 年号 | 出来事 | |
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14世紀 | 先中城按司によって中城が築城される | ||
1440年ごろ | 護佐丸が読谷山から移り中城按司となり、三の郭・北の郭を増築する | ||
1458年 | 阿麻和利の讒言により護佐丸ほろぼされる(護佐丸・阿麻和利の乱) | ||
1471年 | 朝鮮の甲叔舟が『海東諸国紀』を記す。中城グスクが「中具足城」として文献上はじめて登場する。 | ||
17世紀ごろ | 中城間切が世子領となり中城グスクは王子所有のものとなる | ||
1729年 | 中城間切番所設置(『球陽』)より | ||
1853年 | ペリー奥地探検隊が中城グスクを訪れ調査・測量を行う | ||
1881年 | 明治14年 | 沖縄県令上杉茂憲が中城グスクを訪れる | |
1882年 | 明治15年 | 一の郭内の間切番所の一室を教室にあて中城小学校が開校する | |
1886年 | 明治19年 | 城郭東側の広場に瓦葺1棟4教室を建て中城小学校を移す | |
1897年 | 明治30年 | 中城間切番所は中城間切役場と改称される | |
1908年 | 明治41年 | 中城間切役場は中城村役場となり、庁舎は引き続きグスク内の番所が使用される | |
1915年 | 大正 4年 | 二の郭に忠魂碑が建立される | |
1920年 | 大正 9年 | 中城小学校が屋宜に移転されたことにより、跡地が馬場になる | |
1945年 | 昭和20年 | 沖縄戦により一の郭内にあった村役場は破壊される | |
1946年 | 昭和21年 | 中城村役場は奥間に再建されたためグスク内は無人となる | |
1947年 | 昭和22年 | 11月5日 | 民政府(琉球側)が、中城村長渡嘉敷親睦に中城城跡の公園指定を内命する |
11月23日 | 中城村長が軍政府へ呼ばれ、公園計画の提示を受ける | ||
1948年 | 昭和23年 | 7月~9月 | 中城公園整地事業が行われる |
9月 | 公園工事着手 | ||
1949年 | 昭和24年 | 12月12日 | 中城村議会において中城公園の運営形態について、村と民間の共同経営の方針を決める |
1950年 | 昭和25年 | 2月 | 公園施設(売店、遊技場、闘牛場、レストラン)が完成する |
2月1日 | 中城公園株式会社が設立される。 | ||
2月19日 | 民政府指令により公園許可がなされる | ||
1950年 | 昭和25年 | 3月5日 | 中城公園の開園式が行われる |
1955年 | 昭和30年 | 1月25日 | 琉球政府文化財保護委員会により、史跡、名勝、重要文化財(建造物)に指定される |
7月19日 | 中城公園の営業権が村から民間へ移される | ||
1958年 | 昭和33年 | 4月17日 | 琉球政府文化財保護委員会により、特別史跡に指定される |
1961年 | 昭和36年 | 琉球政府による中城城跡石垣修復事業開始 | |
1962年 | 昭和37年 | 琉球政府文化財保護委員会により、特別重要文化財に指定される | |
1968年 | 昭和43年 | 琉球政府による中城城跡石垣修復事業終了 | |
1972年 | 昭和47年 | 5月15日 | 沖縄県の日本復帰にともない国指定史跡となる |
1992年 | 平成 4年 | 4月1日 | 公有化事業により管理権が民間から中城村・北中城村に戻る |
1994年 | 平成 6年 | 10月1日 | 中城村・北中城村による中城城跡共同管理協議会設立 |
1995年 | 平成 7年 | 6月 | 中城村による中城城跡の整備事業を開始 |
1999年 | 平成11年 | 6月25日 | 中城城跡の世界文化遺産登録へ推薦が文化庁で正式決定される |
2000年 | 平成12年 | 12月2日 | 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界文化遺産に登録 |
2006年 | 平成18年 | 3月3日 | 日本の名城100選に選ばれる |
①先中城按司による築城(14世紀)
4代目先中城按司の頃、護佐丸が中城グスクに移ることになり、先中城按司は、現在の糸満市真栄里に移り、移住先で先中城グスク(真栄里グスク)を築きました。
真栄里の伝承では、護佐丸が滅ぼされたとき、赤ん坊だった息子の盛親と乳母が国吉ヌ比屋に守られて、先中城グスクに匿われたと伝わっています。また、盛親は当時の先中城按司に武術を教わりながら成長したという伝承も残されています。(糸満市史編集委員会 2013年)
②護佐丸による増築(1440年ごろ)
護佐丸は、阿麻和利の策略によって滅ぼされるまでの間に、北の郭(井戸郭)と三の郭を増築し、城塞として中城グスクを強化させました。三の郭はミーグスク(新城)と呼ばれています。護佐丸の指示による増築の跡は、石積みの違いから見る事ができ、相方積みと呼ばれる最高の石積み技術によって築かれています。
③護佐丸・阿麻和利の乱 (1458年)
歴史資料によると、護佐丸は中城グスクに向けられた王府軍に対して、最後まで国王に対する忠臣を貫くため、戦わずして家族・部下とともに自害したと記されています。これが、護佐丸が現在に至るまで「忠臣」として名を残すことになった所以といえます。
しかし、19世紀後半に護佐丸の子孫によって記された『異本毛氏先祖由来記』によると、護佐丸はすぐに自害をしたのではなく、国王に対する忠臣を貫くため、阿麻和利が率いる軍と戦い、これでは勝てないと思い自害したと記されています。
④『海東諸国紀』(1471年)
中城グスクの名前が出てくるもっとも古い文献は、1471年に朝鮮王の命により琉球を訪れた甲叔舟が記した『海東諸国紀』です。その中にある「琉球国の図」に「中具足城」と記されています。
⑤中城グスクと世子領(17世紀ごろ)
中城間切が王族の領地となったのは第二尚氏王統の三代目尚真王(在位期間:1477~1527年)の頃からだといわれ、尚真王の息子である尚清(第二尚氏王統4代目国王:1497~1555年)に中城を領地として与えたのが最初だといわれています。その後、中城間切は世子の領地として扱われるようになり、世子のことを中城王子と呼ぶようになりました。
尚質王代(在位期間:1648~ 1668年)になると、世子を中城王子と呼ぶことが正式に定められ、同時に王族以外で「中城」という文字の使用や「なかぐすく」という呼び方を禁止しました。そのため、各地で中城を称していた集落や間切は次々と名前を改めました。この時に中城村から伊舎堂村へと名前が改められました。
一方で、中部の中城間切は「なかぐすく」という呼び方を変えることなく、漢字だけが変更され「仲城間切」となり、その後「なかぐすく」という呼び名は中部にある仲城間切のみとなり、世子領も仲城間切を指す事となりました。
【中城を領地としていた王子たち】
①尚清
第二尚氏3代目国王・尚真王の5男。第二尚氏4代目国王。首里玉陵の完成記念碑である「たまおとんのひもん」(1501年)に「中くすくのあんし(王子) まにきよたる」と書かれていることから、中城を領地として与えられたことが伺えます。
②尚禎
尚清王の長男。若くして亡くなったため、王位には就きませんでした。
③尚熙島添大里王子朝長
任期は1590年代と推察され、20数年間在任していたと考えられています。
④尚豊
第二尚氏8代目国王。長い間佐敷王子となっていましたが、王位継承が決まって以降は中城を領していました。
⑤尚文
尚豊の次男。若くして亡くなったために王位に就くことはありませんでした。
⑥尚質
第二尚氏王統10代目国王。
⑦尚貞
第二尚氏王統11代目国王。
⑧尚純
尚貞の長男。若くして亡くなったために王位に就くことはありませんでした。
⑨尚益
尚純の長男。第二尚氏王統12代目国王。
⑩尚敬
第二尚氏王統13代目国王。
⑪尚哲
第二尚氏王統14代目国王。
⑫尚温
尚哲の次男。第二尚氏王統15代目国王。
⑬尚育
尚灝の次男。第二尚氏王統18代目国王。
⑭尚濬
尚育の長男。若くして亡くなったために王位に就くことはありませんでした。
⑮尚典
尚泰の長男。最後の中城王子。
⑥中城間切番所の設置と間切行政のしくみ(1729年)
中城間切番所とは、現在の役場のようなもので、王府のある首里からの指示を受け、村人たちを管理する機関でした。番所の指示は、各村にある村屋にいる役人に伝えられ、その役人たちが農業や林業の監督や指導をおこなっていました。
⑦ペリー琉球奥地探検隊の中城グスク訪問(1853年)
琉球に訪れるたびペリー提督は、沖縄本島内を調査する探検隊を編成し、島内を調査しました。そして、琉球に関する資料や調査隊たちのメモや報告書をもとにして、アメリカ議会に報告書を提出しました。これが『ペリー艦隊日本遠征記』です。『日本遠征記』では当時の琉球社会の状況や村の様子、人々の生活を知る事ができ、中城グスクの様子についても記されています。
■『ペリー艦隊日本遠征記』に見る中城グスクの様子・・・われわれは古代の城塞を発見して驚いた。城塞は中央分水嶺の支脈の頂上に、湾(中城湾)を望むように位置を占めていた。その輪郭は不規則だったが、ほぼ北東から南西の方向を向いていた。ある部分は完全に保存されていたが、別の個所は蔓や木がのびほうだいになっていて、土台となっている自然の岩とほとんど区別がつかなかった。アーチ形の門をくぐると、道は樹木の茂る段丘へと通じており、その上に慰霊碑に似た石造りの建築物があった。さらに石段を登ると、もう一つの門に達した。門を抜け、広い庭を通って城塞の内部に入った。そこは木々が贅沢に生い茂り、一隅に立派な私邸があった。わがペーチンはすでに到着しており、主人(中国人のクーリーたちは「日本領事」と呼んでいた)がうやうやしく(礼儀正しく)案内してくれた。
・・・(中略)・・・岩に刻まれた急な階段を下りて北側へ出ると、城塞のすぐ下に洞穴があり、その底に冷たい清らかな水をたたえた池があった。その場所には群葉がびっしりと垂れ下がり、太陽の光も届かなかった。・・・(中略)・・・材料は石灰岩で、立派な構造の石造建築だった。石材の中には一辺四フィート(約1.2m)の立方体の石もあり、非常に丁寧に削られ、継ぎ合わされているため、モルタルやセメントは使われていなくとも、耐久性は十分であると思われた。この建造物には、注目すべき点が二つあった。ひとつは、アーチが二重になっていて、下の方は二つの石をほとんど放射線状に削って中央で合わせたもの、その上は楔石を使ったエジプト式のアーチになっているということである。
もう一つの特徴は、稜堡の代わりに石造の四角い突出部があって、前面が凹状になっていることである。これは、砲弾を防ぐというより、その威力をくぼみの中心に集めて受け止める構造なのだろう。とはいえ、この城塞は鉄砲類が琉球に伝わるよりはるか以前に建てられたものに違いなかった。
長さ→235歩幅→70歩
基底部の壁の厚さ→6~12歩
上部の壁の厚さ→12フィート(約3.6m)
斜面に沿って図った外壁の最高部→66フィート(約20m)
内壁の高さ→12フィート(約3.6m)
外壁の角度→60度
『ペリー提督日本遠征記 上』(宮崎壽子訳2014年)より⑧上杉県令の中城グスク訪問(1881年 : 明治14年)
⑨中城小学校の開校(1882年 : 明治15年)
1889年には、三の郭手前に広場を作り、そこに新校舎を建て学校を移しました。新しくできた学校は瓦葺の木造建てで教室は4つあり、職員室や宿直室もありました。校舎の周りはきれいな松林があり、学校からの景色はとても素晴らしかったそうです。子ども達は読み書きやそろばん、体操、音楽などを勉強し、休み時間になると、男子は相撲や蝉取り、女子は縄跳びやお手玉をしていました。運動場では、野球やテニスもやっていたそうです。特に野球では、ホームランボールが城壁に当たる事がありました。
【中城小学校の見取図】
⑩間切番所から間切役場へ(1897年 : 明治30年)
⑪間切役場から村役場へ(1908年 : 明治41年)
⑫忠魂碑の建立(1915年 : 大正 4年)
忠魂碑の建立後は、在郷軍人会などが中心となって招魂祭や式典などがとり行われ、出兵兵士の武運長久を祈願すると同時に、村民に対しては戦意高揚・忠君愛国の精神を教える場となりました。 この忠魂碑は、県内にある忠魂碑の中でも古い方に入ります。
⑬大正期の中城グスク(1920年 : 大正 9年)
1920年に中城小学校が屋宜に移転すると、跡地は馬場として利用されるようになりました。馬場では毎年、原山勝負が行われ、各集落対抗の運動会、相撲や競馬なども行われていました。原山勝負や運動会では、各集落の旗頭を持った大人たちや見物客が大勢集まり、とても賑やかなものでした。また、この日は子ども達にとっても普段食べられないお菓子などをもらうことができる貴重な日でした。 馬場から見下ろす景色はすばらしく、西海岸を一望することができたことから、県外へ出る船を見送るための場としても利用されていました。
■子どもたちの遊び場・中城グスク
大正時代は、中城グスクは子ども達の遊び場でもありました。グスク付近にあるカンジャーガマでは、ままごとや学校ごっこをして半日近く遊んでいる子や、役場の職員にいたずらをする子もいました。北の郭内には五右衛門風呂のような釜があり、職員が週に1・2回ほどお風呂を焚いていたそうで、子ども達も職員が入ったあとにお風呂に入っていました。
⑭沖縄戦と中城グスク(1945年 : 昭和20年)
10.10空襲の後、役場にあった土地台帳や戸籍簿などの書類を二の郭の下にあるカーブヤーガマ(洞穴)に隠したといわれています。
1945年3月ごろから中城村でも空襲がはじまり、それに加えて24日には大規模な艦砲射撃を受けました。グスク周辺の住民は、馬場周辺の墓や個人で掘ったガマなどに避難していました。4月1日、米軍は北谷の海岸から上陸し、2日にはグスク周辺まで攻め込んできました。米軍の攻撃によって役場は破壊されましたが、城壁への被害は少なくほぼ原形をとどめることができました。
⑮中城公園(1950年 : 昭和25年)
1950年3月5日中城公園は開園し、多くの家族連れや遠足の子ども達で城跡内はあふれかえりました。動物園では、ライオンやキリン、ペンギンなどの普段見ることのない動物たちがおり、遊園地では遊具に長い列ができました。1960年代には、来場者が1日で3万人を超えた日もあり、復帰以前最大のテーマパークとして発展していきました。
⑯文化財指定(1955年 : 昭和30年)
⑰復帰以前の修復(1961年 : 昭和36年)
中城城跡の修復は復帰前から行われ、大きく2つの時期に分かれます。
■公園整備に伴う修復
公園施設の整備による工事は1948年9月~1950年2月の間に行われました。工事箇所は西の郭と南の郭の階段、一の郭の東側アーチ門階段と西側のアーチ門階段となっており、階段のみの工事でした。修理の箇所は現地でも見ることができます。
■文化財指定後の修復
戦後の中城城跡は、沖縄戦の影響が少なかったとはいえ、沖縄戦時の砲撃やガジュマルなど樹木の影響により、石積みの破損箇所が多く、いつ崩れてもおかしくない状態でした。そのため、観覧者の安全確保と史跡保存を目的として、1961年~1968年に城壁の修復工事を行いました。
修復範囲は、二の郭の北側・東側・南側の各城壁、一の郭の東側・南側城壁と大規模なものでした。この時に、新しく積んでいる箇所は乱積み風に積まれ、石材も既存のものと比べると小さいものが使われました。また、当時の工事では石材同士を接着するためにモルタルを使用したり、石材の表面に機械の加工の痕が残っています。
⑱修復・保存へ(1995年 : 平成 7年)
城壁の修復では、まず現状を確認するために発掘調査が行われます。発掘調査では、壊れた原因だけではなく、石積み技術や、グスクの構造、グスク時代の人々の生活など様々なことが分かります。また、発掘だけではなく、文書や古い写真資料なども、城跡の修復には大切な資料となります。そして、発掘調査とは別に最新の技術を使った3D測量を行います。
発掘や測量調査によってわかった情報をもとに、今度は修復工事が行われます。修復工事では考古学だけではなく、造園学や建築工学といった様々な視点から修復の方針を決め、熟練の技術を持った石工によって修復作業が行われます。グスクの石積みを修復するためには、最新の技術やさまざまな学問の知識、熟練した技術など多くの人が関わっています。しかし、昔ながらの技術を持った石工の高齢化やそれに伴う石工の減少があり、石工の人材育成は今後、城跡の修復では重要な課題です。
また、城跡内に植生している樹木の伐採も大切な修復・保存の仕事の一つです。樹木の根は、石積みを壊してしまう大きな要因の一つで、定期的に木を伐採することはグスクの崩壊を防ぐための大事な作業といえます。
⑲世界文化遺産登録(2000年 : 平成12年)
世界遺産は、今を生きる私たち一人一人が過去から未来へと伝えていかなければならない大切な遺産です。沖縄の歴史を語る遺跡として、未来へ残していくことが私たちの務めです。